社会

【歴史的認識】の多様性

みなさんこんにちは!

つぼです(●´ω`●)ノ

 

今日は人や国によって大きく異なる「歴史的認識」について考えていることをお話ししていこうと思います。

 

なぜ歴史的認識の話をするのか

僕がこの話をしようと思ったのかについて最初にお話しします。

同じボランティアをしている学生さんからあるイベントの紹介をしてもらった時のことです。そのイベントは宮台真司さんを講師に招いてWebセミナーを行うものでした。そして、イベント紹介HPに書かれている文章で「私はその時、キャンプの歴史を紐解く中で行き当たった「戦争責任の告白を今一度日本はすべきではないか」という問題意識についてお話ししました。」という文章を見つけたからです。

僕はこのキャンプと戦争責任の告白というつながりが見えない2者の関係が気になってしまい「イベントよりもキャンプの歴史と戦争責任のつながりの方が気になる(笑)」とその学生さんにラインを送ったらあるNoteのリンクが送られてきました。

 

このNoteの内容は

戦後における再出発は「「われわれもまた戦争を遂行し、協力した」という戦争責任の告白」によって行われるべきであったが、朝鮮戦争が勃発したことで高度経済成長の時代が到来し、悔悟と贖罪する気持ちを覆い隠していった。今こそ、戦争責任の告白を行い悔悟と贖罪への道を歩むべきだ

というものです。

この文章を見た時になんだかもやもやしたものがあり、しばらく歴史的認識ってなんだろう?ってことを考えていました。

僕達が戦争責任を感じないのはどうしてか?

そもそも戦争責任を感じる必要があるのか?

戦争責任を含む歴史的認識に正しいものはあるのか?

いろいろ考えた話を今日はします。

歴史的認識の多様性

押し付けてはいけない

まず、僕の歴史的認識についての考えをお伝えすると

「歴史的認識は押し付けるべきものではない」

ということです。

 

過去の歴史においては確実に存在する事実はあるでしょう。

しかし、それが「実際当時過ごしていた人々にとってどのようなものであったか」や、「社会における意味」のような多面的にとらえることが出来るような物事については個人から国のレベルまで多様な認識の在り方が存在します。

僕達は過去の状況を文献を見て知ることはできますが、実際にその場に行くことはできません。直接見聞きして知りうることはできないのです。

あくまで、全体が共通で認識している事実とそれに対する多様な認識が存在しているだけなのです。

 

このように認識というのは人の背景や価値観によって大きく異なるものなので、個人で持つまではいいけれどそれを他人に正しいものだとして押し付けてしまうのは間違っていると思います。

認識は他人から与えられるべきものではなく、自身で考えて気付くべきものであるし、多様な認識が存在する歴史という事象においてはそれは特に行うべきではないでしょう。

 

キャンプにおける悔悟と贖罪について

先ほどのNoteには

そして、何よりも重要で、現在のYMCAではまったく感じられないのが、
「われわれもまた戦争を遂行し、協力した」
という戦争責任の告白だ。

 たとえば1949年、淡路で青年たちがキャンプのプログラムを持った際、それぞれが戦争中の思い出を語り、大きな歴史的過ちを自らも担ったことの悔悟(後悔し改めようとすること)と、そのゆえに歩まねばならぬ贖罪(犯した罪を償うこと)への道を誓って、キャンプファイヤーが涙の集会となったとき、それを眺めていた地元の青年たちにも深い感銘を与えたというエピソードなどが生まれたのである。

私たちの再出発は、戦後にスタートした

と書かれています。

戦後のキャンププログラムにおいては戦争責任を自らの責任として吐露する場にもなっていたことについて書かれています。

 

ただ、これが現在において行うことは難しいと思います。

というのも、現在の子どもたちはその責任に直接の関係が無いからです。

当時は戦争終結から4年しか経っていないため生きている人はほとんど戦争に直接的な関与があったでしょう。

しかし、今は違います。

彼らに戦争の責任はないのです。そのため、80年前の戦争責任を告白し、贖罪を促すようなプログラムを行おうとすれば自己満足なもので終わってしまう可能性が高いでしょう。

もし、行うのではあればこちらからのアプローチは知識の共有にとどめておいて、あとはグループディスカッションなどで話し合って彼ら自身に認識や選択をゆだねるべきでしょう。そして、ディスカッションのテーマは過去の戦争責任といった過去のものではなく、今後の世界平和についてといった未来的な話題の方が望ましいです。

こちらから与える知識についても多様なものを用意するべきで戦争責任の告白して懺悔を行うことに偏らないようにするべきです

与えられた情報の中から何を考え何を未来に向けて紡いでいくのかは、参加者である子どもたちに任せるべきだし、そこに大人が介在してはいけないと思います。なぜなら、これからの未来を作っていくのは彼らだからです。

 

まとめ

先ほども述べたように、今の子どもと戦後においては時代が違い、彼らに贖罪をしろ、というのはお門違いです。

彼らは過去に学び、未来を向いていくべきなのです。

いつまでも過去を振り向いている場合ではありません。学んだ中で自ら考えたうえでの贖罪ならば価値はあるでしょうが言われるがまま行った贖罪には価値はないでしょう。

 

過去から何を学び未来にどう生かすか

が大事で、学びの内容については子どもたちに任せるのが良いのではないか、というのが僕の考えです。

 

最初に言いましたが、歴史的認識というのは個人レベルから大きく異なるものです。これを一つに同一化しようとすることこそが僕は悪だと思います。認識は多様に存在していいのです。

戦争責任を告白して贖罪すべき、という人もいれば、そう思わない人もいる

それでいいのです。

そしてそのような認識の多様性を認知したうえでこれからの未来をどのように紡いでいくのかが大事なのです。

 

おわりに

歴史って人によって認識が異なるから本当に複雑に絡み合っていて難しいですよね。

僕はそれ自体が多様であるものを同一化しようとすることにどうやら最近もやもやするようです笑

与えられた知識の中で子どもたちが何を考え紡いでいくのか、それを温かく見守れる大人でありたいです。

 

今日はここらへんで終わります!

また会いましょう~!(●´ω`●)ノ

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